イタリアのかかとってどんなところ?

イタリアのかかとってどんなところ?

"Cartoline dal Salento" = サレントからの絵はがき

南イタリアのサレント。
その土地や、そこで人生を謳歌する人々の姿をイキイキと感じられる絵はがきの
ようにお届けしたい、そんなイメージでスローライフなブログを綴っています。
サレント郷土料理のレシピやイタリア語のワンポイントレッスンも登場します。
どうぞごゆっくり、楽しんでいってくださいな^^

2011/04/07

南イタリアのフォルクローレ♪ Pizzicaの歴史(後編)

Ciao a tutti! Come state? 
こんにちは!一気に春らしく暖かくなってきた今日この頃、みなさんお元気ですか?


ひと月も前のことですが、毎年3月初めに恒例となっているFOODEX(国際食品展示会)での通訳のお仕事のため千葉県の幕張メッセに行き、東日本大震災発生の5日前に大阪へ戻ったFracciaMacciaです。
いつも同じ毎年決まったイタリアからの出展社さんの通訳&その他諸々の段取りのお手伝いをさせて頂いているのですが、 “BIOITALIA” 社さんを筆頭とする、厳選されたイタリア有機食材の生産者&販売者の共同運営グループ『Consorzio Biologico』さんといいます


ナポリからのBIOITALIA社やボローニャそしてトリノなどイタリア各地からいらっしゃるConsorzio Biologico御一行の皆さんはとってもエネルギッシュで楽しい方々ばかりなので、1年に1回の再会そしてご一緒させていただくお仕事はFracciaMacciaにとって春の楽しみの一つとなっているんです^^


健康かつ美味しいオーガニック食材でイタリア料理を楽しむ!なんてステキじゃないですか
南イタリアの有機食材の生産と販売をリードするBIOITALIA社さんは東京の提携会社(残念ながらFracciaMacciaとはまったく無関係ですが)を通じインターネット上で日本向けの小売り販売もされているので、ご興味のある方はネット直販ショップを覗かれてみてはいかがでしょうか?
日本ではまだ珍しいイタリアのお米(言うまでもなくリゾット=risotto や ライスサラダ = insalata di risoに最適!)なんかも案外お手頃なお値段で販売されているようですョ




さーて前置きはこれくらいにしましてお待たせしました!前編(コチラからどうぞ)にひきつづき、南イタリアを代表する伝統ダンス、ピッツィカ(Pizzica)のルーツを探る旅の後編を元気にお届けしたいと思いまーす!





実際に生でピッツィカを見たり聞いたりしたことのある方ならばきっと同感していただけると思いますが、ピッツィカの生み出すエネルギーや迫力はホントーッに見る者すべてを圧倒するものがあります。
その明るいメロディーや軽やかなリズムを聞いているだけで心が軽やかになって、体にエネルギーが充ちてくるのを感じますよ!きっと♪


さて前編では、ピッツィカの歴史をたどるなかで「毒グモ」と「若い女性」と「ダンス」という3つのキーワードが浮かび上がってきましたね。そのときご紹介したサレント地方に伝わる古い言い伝えの原点は、じつはアドリア海を越えたむこうのギリシャ、なんと古代ギリシャ神話の中にあるそうなんです!!!


古代ギリシャ神話のストーリーをひも解けば、ピッツィカ =「毒グモ治療ダンス」というナゾに対する答えが見えてくるかもしれません。
具体的には、アラクネ(伊:Aracne / 英:Arachne)という名の若い娘が主人公として登場するいくつかの古代ギリシャ神話にピッツィカの起源がみられるそうです。
アラクネが登場するギリシャ神話は複数あるのですが、そのなかでも代表的な2つのエピソードをちょっとのぞいてみましょう☆



まずひとつめは古代ローマの詩人オウィディウスによる「変身物語」に登場するバージョン(今回も、まんが日本昔話風でどうぞー^^)・・・・・

 むかーしむかし、アラクネという名の、貧しいけれどそれはそれは美しいむすめがおった。 機織りの腕が見事で、リディア地方に住む者でアラクネの名を知らぬ者はいなかったほどだそうな。
神々に仕える妖精たちでさえ、その見事な腕前にホレボレと見とれてしまうほどじゃった。

そんなある日、いつものようにアラクネの機織りの仕事ぶりを眺めながらニンフたちが「うーん、何度見ても見事な腕前。きっとアラクネはわれわれの女神アテネさまから機織りを習ったにちがいない」と言った。
それを聞いたアラクネは自尊心を傷つけられ少し腹をたてながらこう答えたそうな。「いえ、そんなことはございません。もしお疑いならば、アテネ様より私の方が機織りが上手だということを証明してさしあげても構いません」。

というわけであれよあれよという間に、女神アテネがアラクネの機織りの挑戦を受けるはこびとなったんじゃから、神々も人間たちも巷ではこの話題で大騒ぎ。
自分の腕前にたいそう自信のあったアラクネは、「自分が負けたら罰としてなんなりと受けましょう」とまで約束する始末じゃった。

そうこうするうちに、いよいよ二人が機織りの腕前を競うその日がやってきた。いざ機織りが始まってみるとアラクネの腕前の方が女神アテネよりも上であることは誰の目にも明らかじゃった。

女神アテネ自身もアラクネの織物のあまりの見事さに息をのんでしまったほどじゃ。
嫉妬に駆られた女神アテネは揚げ句のはてにアラクネの織物をその場でビリビリに引きちぎって、なんとアラクネを醜いクモの姿へと変えてしもうた。
女神の怒りを買った哀れなアラクネは、それ以来いまでもその姿のままずっと巣を織りつづけておるというわけじゃ。 <おしまい>

いかがですか? 機織り仕事の糸を紡ぐさまを、クモが糸を出して巣を張るさまにかさねた古代ギリシャの人々の想像力が生み出したストーリーといったところでしょうか。 
それにしても昔話って洋の東西を問わず、現代人の目からみるとけっこう理不尽で残酷なストーリーが多いですねぇ^^; 

写真左: 
この話を題材として描かれた、17世紀スペインを代表する巨匠ベラスケスの名画『織女 アラクネの寓話
(スペイン・プラド美術館所蔵)

左側の黒衣をまとった老女が女神アテネ、右側の糸を紡ぐ若い娘がアラクネを表した姿だとされています




それでは気を取り直しまして^^;)、つづいても古代ギリシャ神話から、同じく若い娘アラクネを主人公とする別バージョンのエピソードを短めにどうぞ♪ ・・・・・

 むかーしむかし、そのまた昔。アラクネという美しいむすめがおって、船乗りの若者と恋に落ちたそうな。ようやく結ばれた二人だったのじゃが、その翌日きゅうに若者が長い航海へと旅立たねばならないことになった。

遠くへと行ってしもうた若者は幾日幾月経てども帰ってこなかった。アラクネは来る日も来る日も若者を待ちつづけておった。

そんなある日、アラクネはいつものように海辺で船の姿を探していると、こちらに向かってくる一隻の船を見つけた。かねてから若者と示し合わせておいた合図を、アラクネはさっそくその船にむけて送ってみた。すると船から同じ合図が帰ってきたのでアラクネは「あの人が帰ってきたに違いない!」と大喜びで港まで走っていった。

すると、何年も帰ってこなかったために人々は見慣れぬその船を敵の船だと勘違いして船が港に入ってくるやいなや襲いかかると船乗りたちを皆殺しにしてしもうた。
長年待ちつづけた恋人が自分のもとに帰ってきた喜びもつかの間、目の前で殺されてしまい絶望するアラクネ。そんな彼女を哀れんだ神ゼウスは、彼女が亡くなるとその姿を毒グモに変えて甦らせ、毒をもって無慈悲な人々に復讐できるようにしたんだそうな。  <おしまい> 

こちらのバージョンもけっこう恐ろしい感じでしたねぇ^^; 



「いきなり古代ギリシャとは唐突だなー」とビックリされた方もいるかもしれません^^ 
しかし、はるか昔トロイ戦争のころ(紀元前12世紀頃ですョ!)から数百年にわたって、古代ギリシャのクレタ島などから海を越えてサレント地方に人々が移住してきたことが明らかになっています(これがギリシャからイタリアへの民族移動の第1波 サレントの中心都市レッチェの街誕生にまつわるこんな伝説もあります。コチラからどうぞ♪)。


日本ではあまりひろく知られていないかもしれませんが、プーリア州をはじめ、イタリア半島のつま先カラブリア州、ナポリを中心とするカンパーニャ州そしてシチリア島にいたる南イタリア一帯には、かつて"Magna Grecia (マーニャ・グレチャ)" = 『大ギリシャとよばれる一大ギリシャ文化圏が形成されていました。
とりわけレッチェを中心とするサレント地方とギリシャの間には(地理的にとっても近いですから)、歴史的また文化的に切っても切れない特別に強いつながりがありました。 
そのなかで、サレントの伝統ダンス・ピッツィカもギリシャからの移民たちにより生み出され守られてきた伝統のひとつといえるでしょう。

ピッツィカの由来を考える上で欠かせないキーワードがもう2つ、 “Tarantella (タランテッラ) ” そして “Tarantismo (タランティスモ) ” です。お気づきのように、いずれも大クモ=Tarantaを語源としています。
"Tarantella" というのはピッツィカに代表される南イタリアのフォークダンスの総称です。そして "Tarantismo"というのは民間伝承の舞踏儀式(というと、なにやら怪しげな響きになっちゃいますね?^^)のことで、


つまり 「あの娘は気がふれてしまったようだ」
   →「それはいかん。きっと毒グモにかまれたのだろう」
   →「薬も効かない。どうやって治してあげようか?」
   →「よしっこうなったら楽器で煽って踊らせて毒気を抜いてやろう!」


という一連のとっても原始的な考え方が基礎となっていて、これも古代ギリシャに遡ることができるものだそうです。

余談ですが、先ほどご紹介したギリシャ神話に登場するこの『アラクネ』という女性の名はギリシャ語でクモを意味するところとなり、それぞれクモを意味するフランス語のAraignéeやスペイン語のAraña、そしてイタリア語のRagnoの語源にもなっています。英語でもふつうクモといえば "spider" ですが、クモ恐怖症を指す "arachnophobia" なんていう表現あたりにはやはりアラクネが含まれていますね。 


さらに余談ですが、近年ハリウッド映画版がリバイバルヒットをした、イタリアでも人気のスパイダーマン(Macciaが通っていた幼稚園では、月1回のお誕生日会などテレビ映画鑑賞の際に古いアメリカTVドラマ版の『スパイダーマン』が上映されていました。こわかったなぁー^^;)。


イタリアでもコミックが長年人気ですがイタリア語では "Uomo ragno(ウオーモ・ランニョ)" といいます。
uomo (男) + ragno (クモ) = クモ男、ってそのまんまですね!(笑)

とにもかくにも、ようやく古代ギリシャ神話に「若い女性」と「毒グモ」とのつながりの起源を見つけることができましたー♪  パチパチパチーッ^^


ピッツィカが「毒グモ治療のためのダンス」とされていたナゾはまだ残されていますねぇ。
16〜17世紀にかけて、毒グモ"タラントラ"に噛まれた毒により気がふれてしまったと勘違いされるようなヒステリー症状に陥った(ちなみにこの状態になった女性を “Tarantolata”といいます)女性がここ南イタリアにも数多く存在したことは事実のようで、その治療手段としてピッツィカの踊りと演奏が大まじめに実行されていたことが当時の文献からも明らかになっています。
しかし前編で書いたように、実際このクモの毒は非常に弱く気がふれるような症状にはならないということですから、いったいその症状のホントの原因はなんだったのか?研究者たちをもってしてもいまだに解明されていないというのが真相のようです。


FracciaMacciaの想像にすぎませんが、衛生環境も食料事情も現代よりずっと悪かったであろう数百年も昔の世界ですから、栄養面ひいては健康面で問題が色々あったことでしょう。それが当時の若い女性がヒステリー状態に陥る一因だったかもしれません。科学や医学の進歩した現代人からみれば「毒グモに噛まれて気がふれてしまったから、タンバリンに合わせて踊らせて治療しよう」なんてのは笑い話かもしれませんが、医療や衛生の知識も乏しい当時の人々にしてみたら、原因不明のままで手をこまねいているよりも、対処法が一応あるぶんまだ安心できたのではないでしょうか。

まぁ少し謎めいたままミステリアスなフォークダンスであった方が、ピッツィカをより魅力的なものにしているかもしれません^^

19世紀ロシアの偉大な作曲家チャイコフスキーの作品のなかに、彼がイタリアを旅した際に作曲した「イタリア奇想曲(Capriccio Italien)」というクラシックに疎いFracciaMacciaにとってはマイナーな(?)作品がありますが、この中にもチャイコフスキー自身が南イタリアで実際に触れたピッツィカのリズムや音色がモチーフになっている部分が登場するそうですよ♪

レッチェ市郊外にあるFracciaのふるさとカリメーラ村(Calimera)で民俗資料館を構え、民俗伝承研究家として活動しているFracciaのお父さんによりますと、17世紀以降はピッツィカから『毒グモ治療ダンス』という性質が徐々に薄れていったものの、中世ヨーロッパの封建社会のご多分にもれず南イタリアでも、当時社会的に弱い立場にあった女性たちが公の場に出て活躍するということはほとんどなく、それどころか大多数の女性たちは人生の大半を家という囲われた世界の中だけで過ごさざるをえなかったため、なかには精神的にその窮屈さに耐えられず、これが原因でヒステリー状態に陥る女性もいたようです。

そういう女性たちが年に数回でも思いきりストレスを発散させる機会をつくろうという配慮からピッツィカという踊りが名目上は『毒グモ治療ダンス』のまま、ますます盛んに行なわれるようになったようです。 
驚くべきことに、この "Tarantolata" と呼ばれるクモの毒のせいで(?)陶酔状態になる女性たちの現象は1960年代までサレント地方で見られたそうですが、それと同時に、ピッツィカは純粋に思いきり楽しむダンスだという感覚もこの頃にはすでに人々の間で広まっていました♪

そして21世紀の現在では、南イタリアを代表する明るく活気あふれた雰囲気のフォルクローレ・ダンスとして知られるピッツィカ(Pizzica) 
 ダンスの主役となる現代の女性たちは、ますます自由に元気に輝きながらこれからも踊りつづけることでしょう
サレントっ子たちに愛されつづけるダンス、ピッツィカと毒グモと女性をめぐる歴史の旅。いかがでしたか? 楽しんでいただけたでしょうか?クモが苦手な方は、何度も「クモ」「クモ」ってスミマセンでした(苦笑)


← 結婚披露宴でピッツィカを踊る花嫁のFraccia
ちょっとマニアックな内容だったかもしれません(歴史ミステリー大好きのFracciaMacciaは思う存分書いて満足してます^^)が、大好きなサレントを語るうえでやっぱりピッツィカはどーーーしてもっ欠かせない存在なんです!
FracciaMacciaの結婚披露宴では、以前ご紹介したピッツィカのグループ Astériaに演奏とダンスをお願いしてご招待客の皆さんとピッツィカを踊ったくらいですし^^

サレント半島の人々に深く根づいているフォルクローレ音楽Pizzicaは、みなさんがプーリア州を旅行される際には(夏場の盛り上がりはスゴいですョ!)ハイライトの一つになることうけあいです★ 
時期や場所などタイミングさえ合えば、ピッツィカのダンスレッスン(思ったよりも簡単ですよ 体力は使いますけど・笑)に参加するもよし♪ タンバリン演奏のレッスン(これはとっても難しいですよー!)に通ってみるもよし♪
観るだけでももちろん楽しめますが、勇気をだしてステキな相手と即興でペアを組み自由に踊ればきっと、さらに楽しく感動的な思い出となりますよ!


毎年8月中旬〜下旬の数週間にわたってサレント地方の各地で催されるピッツィカ最大のイベント "La Notte della Taranta(ラ・ノッテ・デッラ・タランタ)" は必見です。
公式ホームページはコチラからどうぞ♪ イタリア語と英語があります
プーリア旅行でサレント地方を訪れる際は、ぜひそのリズムやダンスを肌で感じてみてくださいね!^^ 

それではまた次回、おたのしみにーっ♪
Alla prossima! Ciaooooooo!



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2011/03/22

いまイタリアから被災地に届けたい応援歌♪♪♪

Ciao a tutti! 
みなさんこんにちは♪ 


今回も前回につづき【臨時増刊号】として、被災地で大変な日々を過ごされている方々、そして日本中で今それぞれにいっしょうけんめい戦っている皆さんに、FracciaMacciaから応援歌をお届けしたいと思います!♪!♪!♪!♪!


Per tutti voi che lottate contro le difficolta`... per darvi un po` di forza e speranza!




まず1曲目は『明日の空』
ここ大阪でうまれたステキなうたです♪ 

16年前に阪神淡路大震災を経験した関西の人たちのなかには(1995年当時、Macciaは横浜Fracciaはレッチェにいましたが)今回の大震災に心をいためている方が本当にたくさんいます。


つづいて2曲目は『上を向いて歩こう』 
世代を超えてみんなに愛されるこの歌を、いま口ずさまずにいられませんね…♪

ちなみにこの映像は、1962〜63年にTBSで放送された音楽バラエティー番組「7時にあいまショー」からのものだそうです。白黒映像に時代を感じますが、いいうたって何年経っても色あせないものですねぇ

そして3曲目は『Domani(ドマーニ)』
 イタリアからの応援歌♪ 『明日』という意味のうたです♪

まだみなさんの記憶にも新しいかと思いますが、2009年4月に起こったイタリア中部アブルッツォ州ラクイラでの地震。300人以上の死者を出したこの地震はイタリア国民に大きなショックを与えました。
そこでイタリアの人気歌手たち56名が一堂に会し "Artisti Uniti" として、震災にあった人々やイタリア国民に勇気を与えるためチャリティーで歌ったのがこのDomaniです。


歌詞は “明日はどうなるかわからないもの。今は絶望的に思えるけれど明日はかならず来る。みんな一人じゃないんだ” といった内容です。


Tra le nuvole e i sassi passano i sogni di tutti
passa il sole ogni giorno senza mai tardare.
Dove sarò domani?
Dove sarò?
Tra le nuvole e il mare c'è una stazione di posta
uno straccio di stella messa lì a consolare
sul sentiero infinito
del maestrale
Day by day
Day by day
hold me shine on me.
shine on me
Day by day save me shine on me
Ma domani, domani, domani, lo so
Lo so che si passa il confine,
E di nuovo la vita
sembra fatta per te
e comincia domani
domani è già qui

Estraggo un foglio nella risma nascosto scrivo e non riesco forse perché il sisma mha scosso
Ogni vita che salvi, ogni pietra che poggi, fa pensare a domani ma puoi farlo solo oggi

e la vita la vita si fa grande così
e comincia domani
Tra le nuvole e il mare si può fare e rifare
con un pò di fortuna
si può dimenticare.
Dove sarò
domani? Dove sarò?
oh oh oh 


Dove sarò domani che ne sarà dei miei sogni infranti, dei miei piani
Dove sarò domani, tendimi le mani, tendimi le mani

Tra le nuvole e il mare si può andare e andare
sulla scia delle navi di là del temporale
e qualche volta si vede domani
una luce di prua
e qualcuno grida: Domani


Come laquila che vola
libera tra il cielo e i sassi siamo sempre diversi e siamo sempre gli stessi,
hai fatto il massimo e il massimo non è bastato e non sapevi piangere e adesso
che hai imparato non bastano le lacrime ad impastare il calcestruzzo
eccoci qua cittadini d'Abruzzo
e aumentano dintensità le lampadine una frazione di
secondo prima della fine la tua mamma,
la tua patria da ricostruire,
comu le scole, le case e specialmente lu core
e puru nu postu cu facimu lamore

non siamo così soli
a fare castelli in aria
non siamo così soli
sulla stessa barca
non siamo così soli
a fare castelli in aria
non siamo così soli
a stare bene in Italia
sulla stessa barca
a immaginare un nuovo giorno in Italia
Tra le nuvole e il mare si può andare, andare
Sulla scia delle navi di là dal temporale
Qualche volta si vede una luce di prua e qualcuno grida, domani
Non siamo così soli
Domani è già qui
Domani è già qui
Ma domani domani, domani lo so, lo so, che si passa il confine
E di nuovo la vita sembra fatta per te e comincia domani
Tra le nuvole e il mare, si può fare e rifare
Con un pò di fortuna si può dimenticare
E di nuovo la vita, sembra fatta per te
E comincia domani


E domani domani, domani lo so
Lo so che si passa il confine
E di nuovo la vita sembra fatta per te
E comincia domani



さぁみなさんもご一緒に、たくましく♪ 上を向いて♪ いきましょう
“Se siamo insieme domani e` gia`qui!”


次回からは当ブログ “Le Cartoline dal Salento 〜サレントからの絵はがき〜 ”もまた通常に戻り、南イタリア・プーリア州サレント地方の元気な空気をみなさんにお届けしていきたいと思います^^
Alla prossima, allora, per continuare il nostro viaggio nel Salento!
 おっ楽しみにーッ♪ 


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2011/03/18

大震災についてのイタリアでの新聞報道…

みなさんこんにちは! Ciao a tutti! State tutti bene? 


先週3/11(金)午後に発生した地震と津波、あれからまる一週間が経ちました。
東北や関東を中心に被災された皆様にFracciaMacciaからお見舞い申し上げます。
わたしたちFracciaMacciaは少しでも皆さんを元気づけられるよう、今回もいつも以上に元気いっぱいでブログをお届けしたいと思いますよーっ!!!!!


いつも当ブログ “Le Cartoline dal Salento 〜サレントからの絵はがき〜” に遊びにきてくださっている皆さんのなかにも東北や関東にお住まいの方がたくさんいらっしゃいます。いかがお過ごしですか?
不便で不安な日々を過ごされている方も多いと思いますが、こういう時こそなんとか睡眠だけでも十分にとって頂きたいと願っています。そしてお顔を上げていきましょうね日本いや世界中のみんなが見守っていますよ
Non perdiamoci d`animo!!


ニュースで耳にされている方もいらっしゃると思いますが、東京をはじめ関東在住のイタリア人はじめFracciaMacciaのお友達の外国人のなかにはそれぞれ個人の判断で、関東地方を離れて西日本に避難したり母国に一時帰国する人たちもここ数日出てきています。
今週末からしばらく、大阪にあるFracciaMacciaのマンションでも北関東在住のイタリア人の友人など数名が、一時避難所として滞在する予定です。困った時はお互いさま!小さなわが家ですが少しでもお役に立てればと


在東京のフランス大使館に勤務する友人から昨晩聞いた話によると、関東近郊在住のフランス人の多くが原発のトラブルを受けてヒステリー状態に陥り(見知らぬ土地での出来事、いたしかたないことかもしれませんが…)フランス大使館ではその電話対応に追われ、とうとう昨日(東京から)今日(大阪から)と軍用機2機が出動してお隣韓国のソウルへとピストン輸送で避難させているとのこと(1000件を越える依頼の電話があったとか)。他の諸外国政府や大使館の処置とくらべても、このフランス人の騒動はやや過剰反応でパニックに陥ってるのかな?という印象です。
さらに驚いたことにはフランス人大使館員の中にも東京で職場放棄し勝手に大阪に行ってしまった人が相当数いるようで、けっきょく今週末からは京都にフランス大使館のメイン業務機能を移すのだそうです。


一方お隣の国、われらがイタリアの対応★ 東京のイタリア大使館も、各種問合せへの電話対応が忙しくなってきたため、すでに業務の一部を大阪の領事館に移しているようです。


東北や関東の被災地ならびに東京など首都圏在住のイタリア人に対しても、大阪以西への避難あるいはイタリア本国への帰国を勧告しています。アリタリア航空も成田発着の便を現在すべてストップしイタリア〜日本間のフライトは大阪の関空発着に切り替えています。
またイタリアへの一時帰国希望者にたいしては往復800ユーロの特別運賃(それでもまだそこそこ高いように感じますが…)で優先的に避難させており、さらに今日イタリア政府も計200席だけですがアリタリア航空の明日3/19関空発ローマ行きの便の座席を帰国希望者(こちらは片道チケットなのでイタリアへの本格的な引き揚げということでしょう)のために無料で確保したとのことです
(希望者は空港のカウンターに並んだ先着順、ただし小さい子供連れや妊婦さんやお年寄りなど優先とのこと)。


また東京のイタリア大使館にはイタリア本国から原子力の研究者グループも派遣され、大使館内で大気中の放射能の値を監視しており(今のところ『まったく問題ないレベル』だそうです)、その数値についてもあるいはその他首都圏の鉄道の運行状況や計画停電の情報などとあわせて逐次(毎日)、大使館に日本在留登録しているイタリア人全員(Fracciaも)に対しメーリングリストで情報が届けられています。


とうぜんイタリアから日本への渡航も緊急を要さないかぎり自粛するよう勧告されています。来週末から10日間、初めて日本に遊びにくる予定だったFracciaのお兄ちゃん…せっかく何ヶ月も前から楽しみに準備していた旅行だけど、やっぱりやめておいた方がいいのかなぁ?


それにしても日本政府や国内の対応に比べて、各国政府や在日大使館の避難勧告など反応がやや過剰すぎるように感じられますが一体どういうことでしょう? FracciaMacciaはまだ判断しかねています(逆に日本政府の対応や発表などに対し疑心暗鬼になりそうな思いも正直あり・・・)。


日本でもマスコミの報道のあり方というのは常に議論の的になりますが、今回の東北関東大震災についてイタリアの新聞を見てみると、やや過激でセンセーショナルな活字がおどっているようです。


イタリアにいる家族から送ってもらったイタリアでの新聞報道の見出しをいくつかご紹介します。(※ クリックで拡大)
まずこちらは地元プーリア州のLa Gazzetta del Mezzogiorno紙(南イタリア最大の日刊紙)より。
『大災害のあとに原発の悪夢。日本崩壊』
ここに出てくる "apocalisse(アポカリッセ)" とは「大災害」よりさらに強い調子の言葉で、「この世の終わり」という絶望的なニュアンスすら含んでいます。かなり過激だと言わざるをえませんねぇ…(怒)
たとえばふつうに「disastro =(大)災害」あるいは「tragedia = 悲劇」等の表現ではだめだったのでしょうか? これらの方が希望を感じさせます。
おなじくLa Gazzetta del Mezzogiorno紙('11. 3. 15発行版)より。
『放射能の警告発令』 
これはまぁ…ウソではないですね、事実ですね。
こちら La Repubblica紙(イタリアの大手全国紙)にも連日震災や原発に関する見出しが。
『原発災害寸前にある日本』
うーん、まぁこれも事実ではないと言えばウソになるでしょうけれど…
おなじくLa Repubblica紙( '11. 3. 15 発行版)より。
『福島で原発事故の悪夢。新たな爆発そして炉心融解の危機』
たしかに深刻な状態でしょう。しかし炉心融解の危機まで書くと、もちろん読者の不安を必要以上に煽ることになりますよね?
こちらもLa Repubblica紙('11. 3. 16 発行版)
『原発の悪夢、東京から退避へ』
うーんこれはひどいです、煽るようなだいぶ意図的な編集といえます。
なにしろこの見出しのすぐ下に大きく掲げられている写真は、おそらく東北あるいは北関東の津波に遭われた地域で撮影されたものと思われますが、あきらかに東京ではありませんよね? この写真がどこで撮影されたのか記述がないようですから「これが東京からの避難する様子なの?!」と読者が受け取ってもおかしくないかもしれません。


まだ被災地で最低限の生活もままならない混迷がつづく今日の時点で大震災の報道ぶりについて論じるのは早計かもしれません。とにかくいま危機にある日本にいる私たちは、パニックになることなく情報の取捨選択と判断する一人ひとりの能力が試されているのだと思います。
そういう意味では、とくに原発や停電に関する情報が二転三転するなどもどかしさを感じる部分も多々あるにもかかわらずほとんどの方々が冷静に行動できている(ようにみえる?)のは誇るべきことでしょう。


地震の少ないヨーロッパは、地震の経験(あるいは“免疫”というべきでしょうか?)が相対的に日本人よりも少ないことも過剰反応の理由の一つに挙げられるかもしれません。
また日本に比べて原子力発電の歴史が長く放射能汚染の危険性に対する啓蒙周知がより徹底されている欧米(とくにアメリカやフランスそしてドイツなど)は、放射能というキーワードにより敏感なこともあるでしょうか(ちなみにイタリアには原発は1基もありません)。
原発事故として世界中の人々に忌まわしい記憶として残っているチェルノブイリの事故も、近隣のヨーロッパ諸国にはよりいっそう恐怖心が強く植えつけられるきっかけとなったように思われます。


そしてなんといっても、心配している家族から遠く離れて日本に住んでいる外国人としてはこんな時にはどうしても心細くなるものです。
自分自身が不安のない場所に避難したいのと同時に、ふるさとの家族や友人を安心させたいという気持ちから避難される外国人の方も多いのではないでしょうか?
「大阪は安全だからね」と何度言っても、イタリアにいるFracciaのマンマや親戚のおばさんなどは「2人ともイタリアに早く帰ってきたら」とくり返していました。


幸いにも今回の震災では安全だった大阪にいるFracciaMacciaのもとにも、地震発生から今日まで1週間、イタリアの家族や世界各地にいる友人知人のみなさんから、本当にたくさんのお見舞いの電話やメールを頂きました。皆さんの温かいお気遣いのおかげでFracciaMacciaのふたりも心がとても温かくなりました。 Grazie a tutti, stiamo bene!


そんなFracciaMacciaとしては普段とまったく変わらない安全な場所にいながら直接被災地の皆さんに手を差しのべられない現状に歯がゆさを感じていましたが、関西はじめ他の西日本各地のみなさんもきっとおなじ想いだと思います。
今週末から草の根避難場所のひとつとしてFracciaMacciaも困っている家族や友人たちを自宅に迎える、小さなことですが皆さんを元気づけるよう貢献したいです。


まだまだ余震、原発の状態そしてなにより被災地の物資配給の困難など気を緩められない状態がつづいていますが、皆さんも日本中そして世界中の仲間と一緒に手を取りあい日本人の良いところを発揮して辛抱強く、冷静に、かならずみんなで立ち上がりましょう!
Coraggio Giappone, su su! Forza! Ce la faremo a riprenderci!


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2011/02/25

南イタリアのフォルクローレ♪ Pizzicaの歴史(前編)

Ciao a tutti!
みなさん、こんにちはー♪

前々回 (お見逃しのかたはコチラからどうぞ♪) は、Fracciaの地元=プーリア州南部のサレント地方のみならず南イタリアを代表するフォルクローレ音楽であるPizzica(ピッツィカ)のライブの模様をお届けしました。
動画でダンスの臨場感をお届けできた(?)のが良かったのか、たくさんの方からご好評の声をいただきました♪  サレント地方の元気さを象徴するようなダンス=ピッツィカに多くの方が興味を持ってくださり、草の根サレント親善大使を自認するFracciaMacciaとしてはとってもうれしいかぎりです♪


というわけで今回前編と後編の2回にわたり、そのピッツィカに歴史の視点から迫ってみたいなと思います!
ミステリアスかつ危険な香りがするピッツィカの由来 歴史大好きMacciaの趣味暴走!なお話になりそうですが、みなさんもFracciaMacciaと一緒に歴史探偵になったつもりでお楽しみください^^
それでは南イタリア歴史ロマン紀行、しゅっぱーーつ進行!




まずこの“Pizzica(ピッツィカ)”という名前。正式には “Pizzica Pizzica(ピッツィカ・ピッツィカ)”とも言いますが、ふつう地元レッチェ県の人たちは親しみをこめてただたんに “ピッツィカ” と呼びます。
音楽好きの方はよくご存知だと思いますが、バイオリンやジャズベースなど弦楽器の演奏に、「ピチカート」あるいは「ピッツィカート(pizzicato)」という弦を指で弾く奏法がありますね? このピッツィカというのは、まさにこの “pizzicato” = イタリア語で「つねったような、跳ねたような、弾いたような」という意味の類語ですから、軽やかにとび跳ねるように踊るダンスにピッタリの名前といえます♪
なんとなーく“ピッツィカ” って音を聞いただけでもピョンピョン飛び跳ねるようなかわいらしい雰囲気が名前に表れているでしょう?^^


ふつうピッツィカは2人でペアになって踊りますが、男女あるいは女性同士のペアが一般的です。そのスタイルも街によってさまざまに変化し、FracciaMacciaはまだ見たことありませんが、まれに男性同士で対決するようにピッツィカを踊るところなどもあるようです。
Pizzica a scherma(ピッツィカ・ア・スケルマ)と呼ばれるこの男vs男ペアのダンス・スタイル(直訳すると "フェンシングのピッツィカ" 、さしずめ指を剣先にみたてた "剣の舞い"とでもいったところでしょうか)は、毎年8月15日頃にサレント半島南部内陸にあるちいさな村Torrepaduliで開かれる Festa di San Rocco(サンロッコ祭り)が有名です。ダンス対決とは激しそうですねぇ^^;


いずれにせよピッツィカのダンスでは女性ダンサーが主役となる場合がほとんどです。男性が一緒に踊るときも、女性パートナーのサポート役、どちらかというと引き立て役にまわることが多いです。その一方でタンバリンやフルートそしてアコーディオンなど、音楽とリズムを奏でる楽器は男性が担当する場合が圧倒的に多いです。


これにはサレント地方のある言い伝えがかかわっているようで、これが本当の史実だったかどうかはともかく、そのサレント各地の家々に伝わっている言い伝えをまんが日本昔話風にまとめてみますと・・・・・


むかーしむかし、ここサレントの地ではあちこちの家々で、若い娘たちがクモにかまれて毒が回り半狂乱になって
しまうという不思議なことがおこったそうな。
医者が診てもどうにもならず、家族が困ったあげく娘のまわりでタンバリンを叩きならしたところ、なんと娘がその
リズムにとりつかれたように踊りだしたそうじゃ。
タンバリンを速く強く叩けばたたくほどそれに合わせて娘もはげしく踊り、昼夜を継いでタンバリンの音と踊りはつづいた。
しまいにはとうとう娘たちは踊り疲れて気を失い倒れるのじゃが、やがて目を覚ますと娘の体からはクモの毒気が
すっかり抜けておって、また元のとおり正気にかえったそうじゃ。
こうしておおくの娘たちの命が救われたそうな。めでたしめでたし。”


・・・・・ とまぁこんなぐあいで、なんと毒グモにかまれた若い女性たちの治療がピッツィカの由来であり、このダンス本来の目的だというんですっ ビックリですねー!


ちょっと話は脱線しますが、日本語版ウィキペディア「ピッツィカ」の項には、上の伝承と同じような内容にくわえて「…また男性が気になる女性を口説くために畑の中でする踊りであったともされている。…」とありましたが、こちらは生粋のサレントっ子Fracciaも家族も親子3代そろってだれも聞いたことがなく、どこからこの話がでてきたのかな?とちょっと首をかしげています。 
クモの昔話よりそっちの方がよっぽどロマンチックでしょうけどねー^^
たしかにピッツィカの歌のなかには「人生」や「苦しみ」などをテーマとする曲の数々とならんで、ラブソングも多く存在するのも事実です。
しかし男女がペアになって踊る場合も、かならずしも恋人同士にかぎられているわけではなく、別に家族や親戚でもいいわけで、たとえば兄妹あるいはお祖父さんと孫娘などがペアになって踊るなんていうほほえましい光景もお祭りや家族の集まりでよく見られます。
ですから「口説くためのダンス」といわれると「・・・?!」と思ってしまうわけです。


さて先ほどのピッツィカの由来とされるサレント地方の伝承に話を戻しまして、、、
実際にはサレント地方に毒グモが多いなんて危なっかしい話はいまどき聞いたこともないし(これからプーリアを旅行されるみなさん、安心してねっ 笑)、レッチェで生まれ育ったFraccia自身ここ南イタリアの地元プーリア州レッチェ県でフツーに生活を送ってきたなかで毒グモならずとも普通のクモすら見かけたという経験がほとんどありません。
ですから、この「ピッツィカはじめて物語」はさすが古い言い伝えなだけに「とにかく踊って踊りまくってクモの毒を消す」というじつにエキセントリックなストーリー展開で「ちょっとムリヤリな感じがするなぁ?」という印象が残ります。


しかし!!じつは、、、おなじプーリア州内サレント半島のレッチェ県とブリンディシ県の北隣に位置するターラント県(Taranto)は、この地に生息する大型のクモ=タラントラ(Tarantola)あるいはタランタ(Taranta)の名前の由来にもなった土地であり(英語の"Tarantula"=タランチュラの語源にも)、さらにそこから派生した、ピッツィカを含む南イタリアのフォークダンス数種類を総称した “タランテッラ(Tarantella)” という言葉の語源にもなっている街なんです…!!
つまりプーリア州ターラント市周辺を中心にサレント半島に大型のクモがたくさん生息していたことはまぎれもない事実のようです。そしてどうやらその大クモと南イタリアのフォルクローレ音楽になんらかの関係があるということも間違いなさそうですねぇ。


あっ!念のため良い機会だと思い調べてみたところ、ちなみにこの南イタリア・プーリア州ターラント県周辺に生息するタラントラは、じつはアメリカ大陸のタランチュラとは見ためは似ているものの全くの別種で、実際には人間に対する毒性はとても低くかまれてもかゆくなる程度なんだそうです(ねっ言ったでしょ?だからみなさん安心してね なんちゃって^^;)。
にもかかわらずこの人騒がせな大クモ、やっぱりその大きくてインパクトのある見た目のせいで『毒蜘蛛タラントラ』として文字通り狂喜乱舞のダンスに一役買わされることになってしまったのでしょうか。ちょっとかわいそうかも...


しかし、仮に人が毒グモにかまれたことがあったとしても、ピッツィカのような踊りがはたしてほんとうに治癒効果があると昔のひとは信じていたのでしょうか?
また、そもそもなぜ「毒グモ」と「女性」と「ダンス」が結びついたのでしょう?


これらのナゾの真相をさぐるには、もう一歩ふかくサレントの歴史に足を踏み入れる必要がありそうです
すると浮かび上がってくるのが・・・・・アドリア海のすぐむこう岸、ギリシャの影響です


・・・・・ (後編につづく) ・・・・・


いやぁいいですねーこのアドベンチャーな感じ♪ ちょっと『世界ふしぎ発見』っぽくなってきたでしょう?^^
今回はここまで めずらしく写真が全然入ってない記事になってしまいましたが楽しんでいただけたでしょうか? 


まだまだ次回も、海を渡ってギリシャにピッツィカのルーツをもとめる歴史の旅はつづきますョ!
お楽しみにー♪♪♪
Ciaooooo!!





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2011/02/11

雑誌に掲載されたサレント半島の記事をご紹介♪

Ciao a tutti!  Come va questa breve vacanza?
みなさんこんにちはー♪ 今日は午前中こちら大阪も雪が降ってうっすら積もりましたー♪(雪国の人には申し訳ないですが、雪がめずらしい南イタリア育ちのFracciaはやっぱりうれしくなっちゃうんです^^)
3連休いかがお過ごしですか?FracciaMacciaは明日と明後日1泊2日だけですが、軽井沢までスキー旅行に行ってきます♪ 楽しみーっ!^^




さて、先日ネット検索をしていてたまたま目に入ったのですが、BUAISO』なる("無愛想"?)フリーマガジンの2010年10月号に、サレント半島をめぐる旅についてスッキリとまとめて紹介された記事が掲載されているのを見つけたので、今回はそちらをご紹介したいと思います♪


当ブログ “Cartoline dal Salento 〜サレントからの絵はがき〜” とはなんの関係もないフリーマガジンですが、「サレントつながり」ということで
草の根サレント親善大使を自認するFracciaMacciaとしてはぜひみなさんにも、と

題して『イタリアのかかと サレント半島』


よろしければ下のリンクからどうぞー♪(全文ノーカットで読めます)
  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  
http://www.buaiso.net/intercity/city/2751/

さすがプロが書いた文章ってイイもんですー なんか洗練されていて憧れちゃいます^^ ところどころ間違った単語が使われていたり、サレントの歴史や起源など情報面でサレントっ子としては正直「えっ…?!」と思ってしまうところも散見されましたが、まぁそれもご愛嬌ということで♪^^


というのも、サレント半島のアドリア海とイオニア海沿岸を中心にプーリア州は、数多くあるビーチリゾートやその豊かな歴史と文化のおかげで、ヨーロッパや北米ですでにかなり人気のあるバカンス地ですが、日本ではまだまだマイナーな土地。。。


こういう『BUAISO』さんの記事のようなかたちで徐々にでもFracciaMacciaの愛するサレントの地に多くの日本の方の目も向けられるようになるとしたら本当にホントにウレシイことです


南イタリアというとどうしても「治安や言葉が…」と不安が先立つ日本人の方もいらっしゃるようですが、こういう記事も一つのきっかけとなりサレント半島に興味を持たれたり「よし!サレントへ行ってみよう!」とプーリア旅行を計画される方が増えるといいなーと思っています(^O^)/


今回ご紹介した『BUAISO』さんの記事にもあるとおり「.....プーリアを回るには半年はかかる.....」だとか「.....サレントにはリピーターが多い.....」と言われるのは、それだけプーリア州には見どころが溢れており、その尽きることのない魅力に誘われ旅人がまた帰ってきたくなる誰しもに『ふるさと』のような居心地の良さを与えてくれる場所だということではないでしょうか。
同じプーリア州を代表する有名観光地のアルベロベッロのお土産屋さんあたりはかなり観光地&商業化されてしまっていますが、牧歌的なサレント地方あたりまで来ると、あまり金儲けや商業主義に毒されることもなく、擦れっ枯らしてない(苦笑)純粋な人々とのあったかーいふれあいが待っています。


そんなサレントがもっともっと多くの人に愛されるよう、草の根サレント親善大使としてこれからますますがんばっていこう!と、雑誌の記事から勇気をもらったFracciaMacciaでした♪


今回はめずらしく当ブログにしてはずいぶん短めにまとまった記事でした^^
それではまた次回をお楽しみに!
Ciaooooo!


★ 次回予告 ★
前回ご紹介した、サレントの伝統ダンスPizzicaはじめギリシャ系少数民族の文化に迫っていきます
乞うご期待!




PS:
『BUAISO』さんは発行部数10万部のフリーマガジン、首都圏と東海地方を中心に地下鉄の駅や企業、医療機関で配布されているそうです。おもな読者層は30〜40代(約70%)とのことですが、かるくサラッと読めるけれど質の高い記事が揃っているなーという印象です。




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